南木山物語（１）

《田舎暮らし＆リゾート》

　 　　 　　　　

南木山（なぎさん）の春　　　　　　　　　作　　唐松　緑

ここは北軽井沢・南木山（なぎさん）、有名な避暑地軽井沢の北側にある。 春の日差しを浴びて壮年の男が一人、ベランダから外を眺めている。何か物思いにふけった様子で、かれこれ１時間ほどじっと眺めている 男の目線の先はから松の芽吹きだ。彼はその後始まる数奇な運命など思いもよらずに佇んでいた。
樹齢５０年以上のから松が林立し、いっせいに芽吹いている。 見上げるような大木に細かい枝と枝が絡み合って、その先にある無数の若草色の芽がいっせいに芽吹いているのだ。 太陽の光に若芽がキラキラと輝いている 何という生命力だ。 　男の名は松井太郎、東京にある大手化学会社を１年前に定年退職していた。 　『から松の芽吹きっていつ見てもいいわね。から松って何年たっても若草色の若々しい芽吹きをするのよね。私たち人間は季節の移り変わりは感じるのだけれど、新緑の芽吹きがないのよね。」
妻の華子がベランダに出てきて、ほっとため息をついた。 太郎は黙って階段を降り、両手を上下に振りながら、から松の落ち葉を踏みしめて黄緑色の林に入っていった。そして何時の間にか樹林の中に消えていった。「変な人」華子がつぶやいた、この家は北軽井沢・南木山（なぎさん）地内にある松井太郎が建てたセカンドハウスである。
赤い三角形の屋根、屋根よりも少し黒ずんだ赤褐色の外壁、所々に大きな窓があり、出窓が付いている。太郎が一番好んでいるのは、居間の前にある広いベランダである。 　都会で何十年ものサラリーマン暮らしをしていた太郎が、ストレスの解消と、老後の健康と楽しみにと数年前に建てた家である。 　この家が太郎のその後の人生を大きく変えていくのだが、この時には誰にも思い及ばないことだった。
太郎がから松の樹林に消えてからしばらくして、太郎の家の前の広い砂利道を１匹の大きな茶色い犬を引いた夫婦が、何か話しながら、ゆっくり、静かに通り過ぎて行った。 しばらくして、遠くで犬がけたたましく吼え続けた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つづく